皮肉な結末

ギリシャ一日目では大変困ったことがあった。英語がまったく出てこないのである。簡単な単語でさえ。普段出てこなくて困っているアラビア語ばかりが出てくる。なんで今出てくるんだ!と自分の脳を責める。別言語を違うフォルダに入れてくれるような器用な脳ではなかった。追加で検索ウインドもつけて欲しい。

 

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ザギントス島では現地ガイドに車で各所を案内してもらった。空腹の私達旅行者のために一通り見終わった後、地元のレストランに寄って3人で食事をした。拙い英語でなんとか会話しながら彼はアテネ出身の大学生で環境についてこの島で学んでいることがわかった。こちらも今はヨルダンに住んでいて自分がやっていることなどを簡単に話す。「ヨルダンについてはどう思う?」「とても危険なところ。僕が行ったらきっと殺される。」「それはあなたがクリスチャンだから?」「そう。」「そんなことないよ。ヨルダンには95%はムスリムだけど、クリスチャンだっているよ。」危険ではない、いや危険だよと押し問答をしていたが、彼が最後に「でも危険だよ。考え方を変えさせられる。」(考え方というより、思想という表現のほうが彼の表情を考えると確かな気がする。)その言葉に私はそれ以上何も言わなかった。正論だと思ったからだ。いや、同意見だったからだ。

 

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アテネは西洋絵画のような街だった。)

 

何もかもがオープンなギリシャの人達を眺めながら、真逆のヨルダンを思い浮かべる。頭の中には健全さと不健全さという言葉が浮かんだ。道徳的な学校教育的な健全さは圧倒的にヨルダンだ。性に関してはひたすら隠し通す。分け隔てる。歪みが出ない訳がない。その矛先は旅行者や異教徒へ向かう。髪や肌を露出するほうが悪いという危険な思考に陥らないで欲しい。でも、そう思われてしまうのが現状である。

ヨルダンには「ニスワンジー」という言葉がある。「ニスワンジー」とは女性をジロジロと見る男性のことを指す。こちらが目を背けてしまうような恰好でも、それがまったくギリシャには居なかった。インドと似たように、健全さを突き詰めていったら不健全になったという皮肉な結末だと個人的には思っている。

ギリシャではまったくストレスを感じなかった。ヨルダンは結構ストレス社会だ。それは禁止事項が多いから。じゃあ日本は?禁止事項なんてきっとギリシャと同等くらいなはずなのに。(同等は言い過ぎか。)

クレタ島でバスに乗っているとき、ヨルダンのバスには「アッラーフアクバル(神は偉大なり)」などのステッカーが貼ってあったりするが、ギリシャのバスにも何かあるんだろうかと顔を上げたら「life is good 」の文字が。ささやかなその言葉に、ささやかにシビレる。これがvery goodだったらシビレなかっただろうな。きっと大きなお世話だなんて思っていたかもしれない。

 

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(車内での禁止事項とともにクルアーンの一節などが飾られる)

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ヨルダンで生活して一年経った。現地の人に沢山助けてもらったのも事実。現地の人に傷つけられたのも事実。どこで読んだか、聞いたか忘れたけれど、旅行者は愛情だけを抱えて、移住者は愛憎を抱える。一年経った今自分の中にある感情はまさしく「愛憎」だ。新しく生まれた感情か、それとも残った感情か。

異質なものに触れぶつかっている。正直、理解に苦しむことのほうが多くなった。これからこういう記事が増えてくかもしれないし、減っていくかもしれない。それはわからないが、どうか私の言うことを鵜呑みにしないで欲しい。

人は生まれた国生まれた地域生まれた性別で人生の約何割が決まるのだろう?